UTOPIA


TRAVELING REPORT / 01

 

マテ茶を探す旅

アルゼンチン/ミシオネス州

 

その9:「マテ茶のすべてを知る」

 

小川さんに連れられ、帰山さんの素敵なお宅に再びやってきた。
ここで小川さんとはお別れ。たくさんお世話になった小川さんとまたいつか必ず再会しましょうと約束する。
帰山さんと奥さんのオルガさんと一緒に帰山さんの車に乗って、まず向かったところはマテ茶畑だった。

昨日は真っ暗でよく見えなかったが、ずっと続くマテ茶畑は青々とたくさんの葉をつけ、まさに収穫の途中だった。
畑のご主人には前もって帰山さんが連絡を取って下さってようだ。

二人の息子さんと一緒に畑の中から出てきたご主人は、私たちにどうやって葉を収穫するのかを教えてくれる。
一人が小さな電気ノコギリでバサバサと枝を切り落としていく。もう一人はその枝についている葉を手作業で摘み取っていく。

実際に私たちにも摘み取りの作業を体験させてもらった。枝の繊維の向きに合わせて勢いよく葉を引っ張る。 そうすると力を加えることなく、葉を摘み取ることができる。やってみるとなかなか楽しい。けれどそれは最初だけで、この広大なマテ茶畑の葉をすべて手で摘み取っていくことを考えると途方もなく、いかに重労働であるかが分かる。
摘み取った葉は100キロ単位ごとに布で縛り、マテ茶を乾燥させる工場へと運び込む。
「昔はマテ茶は緑の黄金と呼ばれ、とても高額で取引されていたんですよ。けれど今ではマテ茶農家の生活は苦しくなる一方です。」


自分で茶葉を乾燥させる工場を持っている人は自分で製品の状態にまでして出荷できるのでまだいい。けれど、工場を持たない貧しい農家は工場をもつ企業に買い叩かれたとしても、その金額で売るしかない。
今まで雨風から必死に守り、大切に育てた茶葉が ほんの僅かな金額で買われていく瞬間、農家さんはどんな気分で見ているのだろうか。

次に訪れたのは家族経営の小さなマテ茶メーカー。小規模ながら畑から製品化まですべて自分たちの手でやっている。
愛想の良いご主人に帰山さんの通訳を通してお話を聞く。

ここでは農薬/化学肥料無使用の良質なマテ茶を栽培、製造していた。さらに乾燥させた茶葉を一年半寝かせ、出荷する。
茶葉は最大で二年寝かす。茶葉を寝かせることで、よりマイルドで丸い味のマテ茶が出来上がるらしい。けれど寝かせている間はもちろんお金に替えることができない。マテ茶葉の価格下落に伴って苦しくなった農家のほとんどは寝かせずにそのまま出荷してしまうということだった。

「お茶どころのここらでも一年半も寝かしている農家はうち以外に聞いたことないよ。そりゃもちろんその間は苦しいさ。けれどやっぱり味が全然違うからね。この一年半の期間が大切なんだ。」

ちなみに日本への出荷が可能かどうか聞いてみた。
「日本へ?それは遠いね。海外への発送はやり方すら分からないよ。でもここで買うんだったらいくらでも提供するよ。」

想像はしていたが、やっぱり小さな農家さんに海外の輸送をお願いするのは厳しいのかもしれない。
お土産に何箱かのマテ茶を持たせてくれた。

お礼を言って帰山さんのお宅に帰り、素敵なおうちで昼食をいただく。
パラグアイやこの地域の伝統料理がおいしい。

昼食のあと、帰山さんご家族と一緒に先ほどのマテ茶を開けてみる。
一口飲んで驚いた。
マテ茶特有の苦味が他のものよりも少なく、その代わりにまるで日本茶のようなまるい甘みが感じられるのだ。
マイルドで柔らかい優しい味のマテ茶だ。
こんなにソフトで飲みやすいマテ茶は初めてだった。
けれど、もちろんマテ茶本来のすっきりとした後味やしゃっきりするマテ茶の香りは健在だ。

紹介してくださった帰山さん自身もこれはおいしいな!と驚いていた。
ついに念願のマテ茶を見つけた気分だった。
こうなれば意地でもこのマテ茶がほしくなるというものだ。
帰山さんと何か方法はないかと相談した結果、一度同じくオベラに住む輸出業社の方に相談してみようということになった。
電話して、その日の夜に会えるように手配してくださった。

昼食後、連れていってもらったのは村の共同経営の茶葉乾燥工場。
ここは貧しい農家さんでも自分で乾燥までができるようにと、みんなで共同で作り上げた工場だった。

私たちがいる間も、村の農家さんたちが次々とトラクターで収穫した茶葉を運んでくる。


まずは茶葉を、炭で加熱した第一の部屋へ送り込む。


ごうごうと音を立てて激しく燃える第一の部屋は迫力満点。部屋の中では送り込まれた熱風で葉を乾燥する。


部屋から出てきた茶葉は半乾きといったところ。


この状態で大きな枝は取り除かれる。けれどこちらも捨てることなく、「テレレ」と呼ばれるアイス専用マテに利用される。


選別された茶葉は第二の部屋へ。
第二の部屋も基本的な造りは第一の部屋と同じ。灼熱の部屋を通って茶葉はさらに乾燥する。

部屋から出てきたパリパリの葉はさらに分別され、大きな部屋に集められる。
この部屋で袋に詰められ、茶葉を寝かす薄暗い保管室へと運び込まれる。
ここでしばらく寝かした後、最後に残る不純物などが取り除かれ、最終の製品となる。

工場と言っても仕組みは非常にシンプルでわかりやすい。
昔はこれをすべて臼を使って手作業でやっていたというから、その労力は想像を絶する。

私たちが来ているというので、共同経営者の代表の方が来てくださった。
小松さんという日本人の方だった。
普段は一般の人は入れない場所らしいのだが、私たちが日本から来たということで特別入れて下さったのだ。
小松さんのご好意により、ついに私たちはマテ茶の全行程を見ることができたのだ!



みんなで出来上がったマテ茶を飲む。
優しいオベラの人たちに囲まれて、感無量だった。


 

夜まで時間が空いたので帰山さんがオベラの街を案内してくれ、夜に輸入業社さんの元へ。
相談してみると、その方が先ほどの農家さんのマテ茶を代わりに購入してくれ、日本まで輸送してくれる段取りを取ってくれることになった。

これは後日談だが、仕入れることになったマテ茶をポサーダスのホステルのみんな、ブエノス・アイレスのplanarデザイナーに振舞ってみたところ、みんな「こんな農家は知らないなぁ」と言いつつも、一口飲んだ瞬間そのマイルドさに驚き、それぞれスマホでそのマテ茶農家を調べていた。そんな姿を見て、アルゼンチンの中でも知る人ぞ知る、特級品のマテ茶を探すことができたんだと、誇らしい気持ちでいっぱいだった。

バス停まで帰山さんが送ってくださり、その日の晩にポサーダスに帰った。

「このご恩は一生忘れません」なんて言葉、今まで使ったこともなかったがそれが本心だった。
帰山さんや日系移民の方々、そしてたくさんのオベラの皆さんのご好意のもと、ついに念願のマテ茶を見つけることができ、マテ茶のすべてをこの目で見ることができたのだ。
オベラの街は住人のほぼすべてが14の国からの移民で構成されている。それぞれ国籍は違えど、慣れないスペイン語と環境に四苦八苦し、みんなで協力しあって生きてきたのだろう。みんながまるで自分のことのように私たちを助けて下さったのはそういった風土があるからなのかもしれない。

「これだけ人がいっぱいいるんだから誰かは知っているはず。きっとなんとかなりますよ!」

明るく、そして頼もしく励ましてくれたオベラの街の人の笑顔が、今もありありと心に浮かぶ。

 

その10「最後に」に続く

 

[マテ茶探しの旅]

記事一覧

その1:「マテ茶との出会い」
その2:「アルゼンチン・ブエノスアイレスへ」
その3:「ポサーダスの夕暮れ」
その4:「"マテ茶"をたずねて三千里と絶望」
その5:「マテ茶の神、降臨」
その6:「オベラで再び途方に暮れる」
その7:「まさかの出会い」
その8:「上手くいくこともあれば、いかないこともある」
その9:「マテ茶のすべてを知る」
その10:「最後に」